2009-08-30

失敗談2.ふたり目のチャットフィリピーナその1

 ダバオのAちゃんにマニラで初めて会った翌日、ブラカンのLちゃんが友人と2人でマニラまで来てくれて、私も合流した日本からの友人と2対2でロビンソンで会いました。
 この彼女は当時まだ19才で色白マガンダでした。
 この時は前日のAちゃんがストライクど真ん中だったので、食事と当時まだあったベイウォークをぶらぶらしただけで別れました。
 そして8月のダバオで痛い目に会った後、彼女がチャットオフィスのフィリピーナ全員を引き連れてブラカンから車で駆けつけてくれて、エルミタのカウボーイグリルで大騒ぎしました。
 結局ダバオのAはやめて、このブラカンのLと付き合うことになったのがその年、2006年の12月でした。
 単なる願望ではなく、双方合意のもと、正式に結婚の約束をしたのも彼女が最初のフィリピーナとなりました。


つづく

2009-08-11

失敗談1.最初のチャットフィリピーナその4

 さて本命のチャットフィリピーナ、6月にマニラで会ってウェブカメラより可愛かったので舞い上がってしまった私は「痛いオヤジ」そのものの行動にでます。(^^ゞ

 2ヶ月後の8月に再び渡比して彼女が里帰りしているダバオまで行き、同じ飛行機でマニラまで戻ってダバオ2泊マニラ1泊を共に過ごすというよだれの出る計画だったのですが…、(^^;)

 その渡比の前に、彼女と彼女の友人がダバオに帰る為の飛行機代もヘルプしたような気がします。もちろん下心は臨界点に達しようかという勢いです。ヾ(^▽^)ノ
 そしてダバオの2泊のホテルは彼女の友人に予約してもらいましたが、みなさんなら当たり前のランクのホテルでしたが、私はいつも1泊3千円から4千円台のホテルにしか泊まらないので正直びっくりコキマロ!!でした。(^^ゞ
 彼女は事前のチャットで3泊とも2人きりで過ごすことを約束してくれましたが、渡比直前に「お婆さんが病気」だと伏線を張ってきました。嫌な予感がしました。
 そして初日のはダバオ空港に迎えに来てくれて……でもその友人と3人でホテルにチェックイン。あちこち市内の見所を案内してくれて、3で同じベッドで就寝。彼女はジーンズ履いたまま。最悪の状況です。言い訳は生理たから(゜Д゜)

 痛すぎました。(^^;)

 翌日は友人宅へ行き、友人の幼い娘とお母さんまで連れて5人でクロコダイルパークへ行きました。
 しかし宿泊は私だけ。(--;)
 お婆さん病気だからと帰る彼女。翌日のマニラ行きも独りぼっちでした。
 で、その時の彼女は真新しい携帯とデジカメを持っていて、携帯はお父さんに借りた…。デジカメはお兄さんに借りてメモリーカードは自分のだって…(=_=;)

 こりゃあ脈なしってことで次の候補ブラカンの19才に乗り換えることにしました。ヾ(^▽^)ノ

 でもマニラに戻ってから別のチャットフィリピーナと会い、なんとか目的は遂げられましたとさ。(^^;)

2009-08-06

もう一つのブログも更新中

 フィリピンにびっくりコキマロ!! http://bikkurikokimaro.seesaa.net/ では、フィリピン旅行記を更新中です。

2009-08-02

失敗談1.最初のチャットフィリピーナその3

 さてロビンソンで食事しただけで、しどろもどろの会話で彼女と別れました。(^^;)
 帰国前日のマニラ最終夜に再会を約束したのですが、その時は彼女の友人が一緒でした。(=_=;)

 そしてそんな事にもめげずに8月はダバオに帰省した彼女に会いに行っちゃいました。ヾ(^▽^)ノ
 この時からNW(ノースウエスト航空)をしばらく利用していました。今はチャイナエアラインズ(中華航空、CI)専門です。

 さて、この渡比は正に「痛いオヤジ」そのものでした。(*´д`*)

つづく

失敗談1.最初のチャットフィリピーナその2

 この初渡比のチケットはPALで成田〜セブ〜マニラ〜成田という取り方をしました。ストップオーバーですね。
 ですから私の初マニラはターミナル2の国内線でした。ここで初めて三井住友銀行の国際キャッシュカードを使いました。昼間に着いたのでむき出しのATMでの出金にも、特に危険は感じませんでした。
 ガイドブックに従ってクーポンタクシーに乗り、ネットで予約したエルミタのパラゴンタワーホテルに向かいました。
 当時はバスタブ付のかなり広めな部屋に朝食が付いて1泊3千円台でしたので、しばらくは私のマニラでの定宿になりました。
 しかしその後朝食なしで5千円台と大幅な値上げがあった結果、今は全く利用していません。

 初渡比と書いてますが、実はマニラは2度目の滞在なんです。1度目は1977年の9月初め、ヨーロッパ33日間の貧乏旅行の帰路、大韓航空の南回りでマニラに1泊しました。しかしペソもなかったのでホテルからは一歩も出ずに過ごしました。


 チャットフィリピーナには事前に携帯のショートメールで連絡が取れています。
 現地で買うより高かったですが、フィリピンで使える一番安い携帯をネットショップで買っておいたので、日本を立つ前に私の携帯番号を相手に知らせる事ができて、セブ空港でも迷わず迎えのフィリピーナ2組と出会うことができました。
 今はドコモ、ソフトバンク、AUそれぞれにフィリピンで通話可能な機種が揃っていますので、最初の出迎えは通話料が高くてもそれで済ませて、後から街中で安い現地携帯を買うという方法でもいいでしょうね。

 さてやっと大本命だったチャットフィリピーナの登場です。
 結論から先に書いてしまうと、この娘には二股掛けられていて、どうも言動がおかしく、最終的にはもう一人の日本人と結婚して今は子供も2人でき、家族4人で関東に住んでいます。
 まあそれ以前にヤフーメッセンジャーで子育ての話になり、彼女が「バストが崩れるから母乳はあげない」といったことから気持ちが冷めてしまったというのもありましたね。
 彼女は約束通りホテルに現れました。しかも1人で。
 その後の私なら1人でホテルの部屋に来たフィリピーナに何もしないなんて考えられませんが、当時はまだフィリピーナ慣れしていませんでしたし、本当に彼女がタイプど真ん中でウェブカメラよりも可愛かったので、ホテルからロビンソンまで手をつないで歩くのが精一杯でした。(^^ゞ

つづく

失敗談1.最初のチャットフィリピーナその1

 私が初めてフィリピンパブへ行ったのは2002年の8月の終わりでした。
 5月に離婚して7月の初めにカミサンが出て行って、精神的にかなりダメージがあった時期でした。
 フリーで入るつもりが、何故か1枚の写真を指差している自分がそこにいました。

 そのフィリピーナは2ヶ月足らずで帰国してしまうという話だったので、最後の1ヶ月は毎日のように通いました。
 今思い返しても、あの時期が今までで一番楽しかったように感じられます。
 その後彼女は同じ店に2回(1回につき6ヶ月間)来日しましたが、初回のような(毎日通うといった)金の使い方は出来ませんでした。

 そして2005年にはフィリピン人に対する興業ビザの発給に厳しい制限がかけられるようになり、2006年の3月に初渡比を計画しましたが、1月に持病が悪化して緊急入院緊急手術という事態になって、それでも6月に初渡比を果たしました。

 最初の指名子とは翌年(2007年)の11月にマニラで再会し以来時々連絡を取り合っていますが、この時は同じ店でもう1人指名していたフィリピーナと、蒲田の店で数回指名した日本語があまりわからないフィリピーナの2人がセブにいるので、まずPAL(フィリピン航空、PRともいいます)の直行便で成田からセブへ降り立ちました。
 空港ですっぽかされた話をよくネットで目にしていたのでダブルブッキングしましたが、かえって逆効果で2人とも現れて2人とも不機嫌でしたヾ(^▽^)ノ
 まあどちらも本命ではないので問題ありません。

 そしてマクタン島に2泊して、いよいよマニラでチャットフィリピーナに会います。

つづく